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村上龍

私と村上龍〜2003 Version〜

彼との「出会い」は過去の「私と村上龍氏」を読んで頂ければ分かると思う。

ここに書くのはいわゆる「その後」である。私の中で彼との接し方が大きく変わったのは「JapanMailMedia」創刊がきっかけである。このメールマガジンを見る限り、彼は異常なまでに日本経済に執着している。過去に私の友人が放った言葉を借りると、彼は意識的・無意識的に「憂国」という思想を受け継いだとも言える。

彼の魅力、それは自分を日本の"外部"に位置付け、その位置で創作活動を続けていた点である。
ところが彼の立ち位置が日本の"外部"である、と言えなくなってきた時期がある。それが「JapanMailMedia」創刊のタイミングとほぼ一致する。

また、「インターネット」という新たなメディアの登場で、彼のように"外部"に位置する事が難しくなってきたとも言える(正確には"外部・内部"の垣根がなくなった、と言うべきだろう)。そして、その時期から私は彼に興味がなくなった。いや、正確には「ライン」という小説を読んでから、と言った方がいいかもしれない。

「ライン」はいろんな意味で村上龍の集大成的な作品だと思った。そして、その後の作品には「ライン」を超えるものはないであろう、とも思った。彼が「イン・ザ・ミソスープ」で描いた日本。その時の日本が変わらないまま、今、ここにある。変わらないどころか、どんどん悪化している。"内部"と"外部"の垣根がどんどん薄くなっていく中で、生き場を失った人たちが彷徨っている。まだ村上龍の役割は終わっていないのではないか?

そう思うから、私は別の形でペンを執る事にした。その文章は公開されるかどうか分からない。その文章で語るべき言葉は村上龍に贈る言葉であり、私自身に贈る言葉でもあるだろう。


「2000年の私と村上龍」

(2000.12.7 Written)

今年、私はあまり村上龍とは関わりを持たなかった。
私にとって彼の存在があまり大きな意味をなさなくなった。
それは彼が教育問題を語るようになった事も関係あるだろうし、ただの一般文化人に成り下がった事も関係あるだろう。
村上龍の作品の基本コンセプトは一貫している。「コミュニケーション」である。
「コミュニケーション」という基本コンセプトの元に「教育」を語るのは"あり"だと思う、が、最近の彼は「教育」を語る事が前提になっているような印象を受ける。
今日、メールを整理していたら、「7.2sec.」の頃のメールが出てきた。当時、一緒にやってた方にメールを出した。何かできないかなぁ・・・と思って。
どうやらこの頃、既に村上龍には飽きている自分がいた。でも、私の中でこの「7.2sec.」とその後の「abem.net」は勲章である。
この勲章を手に入れるきっかけを作ってくれた村上龍には感謝しています。

来年にはここは消えているかもしれません。「過去のBoom」というコーナーを作ろうかと思っています。


「希望の国のエクソダス」

(2000.8.12 Written)

一年ぶりの更新となる。

「共生虫」が私にとってはあまり面白くないものであったのでまだ書いていないが、これについては手放しで面白い!と言える。

久しぶりにショックだった。
数年前の小説というのが信じられなかった。

ストーリーその他は一切書かない。読んで下さい。

この小説の中には希望と絶望が同居している。希望的観測と絶望的現実という表現が正しいか・・・

果たして日本はどうなるのか、どうすればいいのか。
企業という存在はこれからどうなっていくのか、どうすべきなのか。
個人はどうなっていくのか、どうすべきなのか。
明快な答えはもちろんない、が、ヒントはこの中にある。


「Japan Mail Media」

(1999.6.26 Written)

村上龍が編集長となって発行しているメールマガジン。
テーマは「日本経済の回復」。但し、これも「当面」とだけ謳っている。恐らくこれからテーマが変わっていくだろう。
これを第2回から読んでいる。正直、面白いと思う。経済の捉え方が既存のメディアとは違うと思う。普遍的な事項だけを取り上げると言っていたが、まさしくその通りである。
私は経済に疎い方である。何となく仕組みは理解しているが、言葉を全く知らないし、明確な法則を全く知らない。そういう私にはこのメールマガジンは非常に役に立っている。
この人は本当に人にモノを説明するのがうまいと思う。多分、これは村上龍がある程度は目を通しているだろう。というか、全ての内容に何らかの形で関わっているはずだ。
現在、週刊をきちんと守って発行している。このペースで発行してくれれば、それだけで私は嬉しい。


映画「ラブ&ポップ」

(1999.1.24 Written)

生々し過ぎた。
文章だと乾いていた景色、言葉、表現。冷静に見る事が出来た「全て」が生々しく、そして「痛い」。

現在、女子高生を取り巻く「環境」がこれ程までに「痛い」とは思わなかった。
それは庵野監督の力とか、そういうのは抜きにしても「痛い」。
そして、その現実を突きつけられている女子高生は「どうしたらいいのか分からない」んだろう。16、17の女の子たちに平気でそういう現実を突き付ける大人というのは一体何だろうか。

そういう彼女たちが自分たちなりに見付けた価値観が「お金」「プリクラ」。。。そして、それらでつながった、いや、つながっているように見える「仲間」。。。。そんなもんだ、そんなもんしか見付けられるわけがない。

小説から映像になって、ここまで「痛々しく」そして「生々しい」のはなぜだろう。
病んでいる人々がたくさんたくさんたくさんたくさん、いろんなものを抱えて生活しているこの日本という国。ここから抜け出せるのか、抜け出せないのか、そのキーは彼女たちが握っているような気がする。
彼女たちが絶望の中から見出す希望、それがこの日本が立ち直る希望の光になるような気がする。

そして、この映画で「エヴァンゲリオン」が全て完結したような気がする。


1998年の私的村上龍

(1999.1.1 Written)

昨年、私にとって一番大きかったのは、氏の海外向けホームページのスタッフとして、わずか数ヶ月だったが活動出来た事である。
あるきっかけで出会った阿部氏(「龍声感冒」の英語版のWebmasterだった方)をサポートする形で手伝わせて頂いたのだが、非常に刺激的で楽しかった。
まあ、そのプロジェクトは阿部氏の不用意な発言でなくなってしまったのだが。。。ある意味、あのタイミングでなくなるのはよかったのかもしれないとも思っている。

そして、それをきっかけに私は少し村上龍から離れている。正確には「ライン」を読んだ後から離れ始めていると言った方がよい。あれで村上龍の中で何かが終わったと言えるかもしれない。そして、これからは今までとは違うスタンスで小説を書くのだろうと思っている。

「憂鬱な希望としてのインターネット」で発せられている氏の言葉は私には何の影響も与えていない。それだけ氏の言葉に力がなくなったとも言える。又、「すべての男は消耗品である Vol.5」の言葉も非常に弱く感じられる。「夢見る頃を過ぎれば」「ワイン一杯だけの真実」に至ってはまともに読んでない。最初の数ページで読む気がなくなった。

私はとうとう村上龍以外の言葉を探さなければならないのか?それは非常にしんどい事になりそうだ。もしくは自分の言葉を発するという行為に出なければならないのか?それは出来れば避けたい。
今年は果たして私の中で「村上龍」という人がどういう位置になるのか、それは楽しみであり、非常に不安である。ただ一つ、思う事は、今年は私が誰かの「村上龍」になりたい、それが目標である。


「憂鬱な希望としてのインターネット」及び 「Tokyo Decadance」

(1998.11.13 Written)

どうやら4ヶ月も更新していなかったようです。ごめんなさい。

このホームページも掲載されている本。

この本は大きな間違いを犯している。それは取材してから発売するまでに間が空き過ぎているという点である。ここで村上龍が述べている「インターネットに関する見解」は既に過去のものである。少なくともこういう本は「月刊誌ペース」で発行しないと意味がない。

書いてある内容について、批判出来る事はたくさんある。
が、ここでは「Tokyo Decadance」について書きたいと思う。

どうやら「Tokyo Decadance」は商業的には失敗しているようだ。その理由がスタッフ及び村上龍には一切分かっていないという事がこの本を通して理解出来る。インターネットだから「Shockwave」を使えばいいわけではなく、課金システムの問題でもない。一番の問題は「インターネットで文章を読ませるための努力を全く行っていない」事にある(というこのサイトもそんな努力は大してやってないのですが・・・)と思う。

「プロの小説家がインターネットで文章を読ませる事の意味」が分かっていないと思ったのは、私が関わっていた村上龍氏の海外版サイトでも感じた事である。諸事情により、そのサイトは閉鎖せざるを得なくなったが・・・

インターネットで小説を発表し、しかもお金を取るという事を他に先がけて行ったのは素晴らしいかも知れないが、そのコンテンツは正直、大したことはなかった。
発表された書き下ろしも全く大したことないし、何といっても発表のペースがインターネット的ではなかった。
課金するのであれば、それなりのペースで作品を発表していかないとアクセスは増えないし、一度お金を払って全体を見回せば、もう2度とお金は払わないと思う。
私もわざわざ東京でBitCashを買ってきて登録したが、ファンの私でさえ、恐らく再登録はしないだろうと思う。しかも2回ほどアクセスしただけである。もう一度くらいは見るかもしれないが、あのシステムでは電話代やアクセス料を考えるとあまり見る気にはならない。だってキャッシュされないから、後で読む事が出来ないんだもん。どこのどいつがあんな長い小説をインターネットにつないだまま読み続けるだろうか。会社でないと読まないよ、あんなの。

本についてはあまり書かなかったが、もう少し力を入れて欲しかったというのが本音です。これでは村上龍が「僕はこんなにインターネットの事を勉強してますよ」という発表の場に過ぎないし、これでいろんな雑誌からの取材を増やそうとしているだけのような気がする。現に「バイオティック・レイヤード」の後はCG系雑誌の取材が増えているし・・・

正直、最近の氏はエッセイなどの軽い仕事が多過ぎるような気がします。エッセイが増えてきたという事は村上龍「先生」になってしまっているという気がしてならない。氏が「先生」になってしまうというのは非常に残念だが、日本もとうとうそのレベルまで来てしまったのか?と思わざるを得ないところがあるのが悲しい。


村上龍映画小説集

(1998.7.18 Written)

二十三歳の頃だった。

その通り、村上龍が23歳の頃の話をモチーフにしたものだろう。それ以外にもいろんなところで読んだエピソードが散りばめられている。
SEX、ドラッグ、ロックンロール、そして映画。内容は非常に退廃的だが、読後感は決して悪くない。むしろ青春の香りがする。それは最後の文章が大きく影響していると思う。

あんなにたくさんセックスしたのはあの時だけだったわよ、と七杯目のコニャックを飲んだ後でヨウコはそう言った。ボクも同じだ、と言うと、嘘つきなのは変わってないわね、とほとんど皺のないきれいな顔でヨウコは、楽しそうに笑った。

(1998.7.5 written)

村上龍の作品の中でも「好きな」部類に入るものです。同系統のものには「料理小説集」があります。これは又の機会に。
映画をコンセプトにしているわけではなく、恐らく村上龍の若い頃(「限りなく透明に近いブルー」の後)がモチーフとなっている。その頃に見た映画の記憶と、その頃の自分の行動をうまくマッチさせて作品にしている。とても淡い香りがする小説集です。

列車の中でも「安心して」読めたのを覚えています。
別に考えさせられるところもなく、個人的には「69 パート2」くらいの気持ちで読んでました。それだけ安心して読めるし、なんだか懐かしい気持ちにさせられる本でした。
こういう小説、また読みたいです。


イビサ

(1998.5.24 Written)

久しぶりにきちんとした「小説」を取り上げる。
一人の女性の旅の話である。ただの旅ではない。破滅的な、破戒的な旅である。自分自身と向き合う事、それがどれ程危険な事であるか。もう随分前から聞く言葉「自分探しの旅」。いろんな人が口々に発するこの言葉、現代の「自分探しの旅」がどれ程くだらない事か、それがよく分かる。

この本を読んで私が得たものは自意識のイメージである。自意識をイメージする事によって、分裂症などの精神病と言われるものをイメージする事が出来る。決して、このイメージは精神病をがむしゃらに勉強しても得られるものではないだろう。そして、これらをイメージさせるために村上龍という人は膨大な言葉遊びと言葉選び、一人の女性、そして「イビサ」という島を選んだ。これらが我々に教えてくれる事は、人間は自分と向き合わないために様々なものを生みだしたという事である。

自分探しと称して、いろんな習い事をしている人、新興宗教にのめり込んでる人に読んで欲しい。あなたが考えている「自分探し」がどれ程のものか、少しは理解出来るだろう。


龍声感冒ホームページ

(1998.4.13 Written)

だいぶ前に訪れた記憶がある。あまり面白くなかったという印象が残っていた。
先日、久しぶりに訪れてから、1日1回は覗くようにしていた。それは自分の「面白くなかった」という感覚に疑問を抱いたからである。
村上龍という人について紹介しているホームページは決して多くはない。その理由に恐らくこの「龍声感冒」が関わっているのではないか?と思っていた。このホームページがあまりに出来が良くなっているから、他の人たちが尻込みしているのではないか?と思ったのだ。しかし、それは私の考え過ぎだったようだ。

正直に言って、このホームページは全然面白くない。村上龍が認め、彼自身も運営に携わってしまっているという事が問題なのか分からないが、作っている作者の顔が全く見えない。まあ、作者は一歩引いたところから見ているのだろう。それでもちょっと・・・面白くない。
中でも面白くないのは感想を書いているページ。いろんな人が村上龍氏の小説について感想を書いているが、大したことが書かれていない。選んでいるようには見えないので、投稿されたものをすべて掲載しているのであろう。それにしても面白くない。これなら私が書いている感想の方が面白いと思うのは果たして自惚れだろうか。
最近はJAVAを使って何らかの工夫をしている様であるが、ページが重くなっているだけなので、考え直して欲しいと思うのは私だけであろう(これはホームページ全体に言える事。決してここだけの問題ではない)。

このホームページを見て、自分で村上龍の本を紹介するホームページを作ろうと思ったのは間違いない事実なので、このページが生まれる原因を作ってくれたホームページではある。が、「龍声感冒」は「村上龍」という人に頼り過ぎている感がある。それなら大々的に「村上龍公式ホームページ」にしてしまってはどうだろうか?現在のスタンスは非常に曖昧であり、中途半端であり、見ている方もすっきりしない。


バイオティック・レイヤード

(1998.2.22 Written)

彼がコンピュータ・グラフィックスにハマっているのは知っていた。なんといっても「イン・ザ・ミソスープ」の挿し絵は全て村上龍自身が作成したものであるから。が、まさかこういう形で「画集」を出すとは思わなかった。「ちょっと勘違いしすぎだよ」と、さすがに私も思った。
元々、自らの小説のカバー写真を撮影したり、デザイン的な事をやっていた氏であるので、それなりのものには仕上がっているが、「色」が統一されすぎていて、ショックというものが全くない。果たして、彼のCG作品が「評価」されて発売されたのか、ただ名前だけで発売されたのか、よく分からない。仮に「評価」されているのなら、「それはちょっとおかしくないかい?」と私は異議を唱えたい。この画集はそれほど魅力的なものではない。

この本で面白かったのは、対談「ウィルスと文学」。免疫学者の奥村康という方と対談しているのだが、「ヒュウガ・ウィルス」に関する話は面白かった。やはり、村上龍は「言葉」の人である。


今年の「私と村上龍」

(1997.12.31 Written)

今年はやはり「イン・ザ・ミソスープ」が私にとってはとても大きな「出来事」だった。
まさかの新聞連載、しかも読売新聞。そしてその内容の意外さと素晴らしさ。最近の村上龍に欠けていた「もやもやと後まで残るもの」がずっと、ずっと残った(残っている)小説である。
残念ながら、今年は買っておきながら読んでいないものが3冊もある。「白鳥」「ストレンジ・デイズ」「オーディション」。来年早々には読んで、感想をここにアップしたい。
どうしてもアップのペースが遅くて、私が読んだ全小説を網羅するのには、まだかなりの期間を要するようである。それでも、私が読んだものについては全て何らかのコメントを付けるようにしたい。


コックサッカー・ブルース

(1997.12.2 Written)

「ガキは決して読んではいけない」。背表紙に書いてあったこの言葉、確かにこいつは読んではいけない。
一昔前の村上龍と言えば、恐ろしいまでの性描写がかなり「ウリ」だった部分がある。まさしくその集大成的小説とも言える(私が勝手に言ってる・・)のがこれ。又、村上龍初心者が決して読んではいけないのもこれ。

さすがの私も卒倒しました。でも、この雰囲気、好きです。後の「昭和歌謡大全集」は恐らくこれが出発点ではないかと思ってます。
とにかくエロい!そこら辺のエロ小説なんてもう足元にも及ばないくらいエロ!しかもグロまで入ってるから手に負えない。
「イビサ」「トパーズ」「限りなく透明に近いブルー」辺りで修行してから読んで下さい。


ヒュウガ・ウィルス

(1997.11.27 Written)

「5分後の世界」の続編。村上龍には珍しく、同じ設定で続き物のような扱いになっている。
個人的には「現在の地球から5分、時空がずれた世界」という設定は非常にショックが大きかった。「そんな構造で小説を構築していく」という事が凄いと思った。「現在」は現実のものとして生きている状態で全く違う世界を構築するという手法は今まで、恐らくどんな小説家も考え付かなかったであろう。
やはり、それだけパワーを使ったものなのだろう、続編が発表された。「ヒュウガ・ウィルス」、O-157やエボラ・ウィルスなど、「殺人ウィルス」なるものが流行ったが、村上龍が独自にこれらウィルスを勉強、解釈して、更に独自の味付けを加え、小説化した。やはり、向学心と想像力、そして文章力がこれだけの「大作」を作り上げたのではないか。
が、この中にも彼なりのメッセージが植え付けられている。この本を読んで、私が感じた事は・・・言いません。自分で感じ取って下さい。生き方を考えさせられる一冊です。


音楽の海岸

(1997.11.15 Written)

中上健次氏が亡くなった日から書いたという小説。

主人公は女を売っている男。その彼がある男にとある映像作家の「抹殺」を依頼される。基本的なストーリーはここから始まるが、もちろんそれだけでは終わらない。ニンフォマニアの女、主人公の妹、そしてこの小説で重要なのが「音楽」と「言葉」。この2つがキーワードになっている。
私がこの小説で非常に印象的だったのが音楽に関する話。「なぜ人間はメロディを必要としたのか」「ベートーベンやショパンよりもドレミファソラシドを作った人が偉い」。そういう話がこの小説には織り込んである。
「言葉」というもの、「話す」という事を真剣に考えさせられる。そういう意味では、僕にとってはまさしく「バイブル」的な小説である。


イン・ザ・ミソスープ

(1997.10.28 Written)

読み終わって、まず考えたのは「こんな小説を新聞に連載していたのか」。しかも読売である。しばらくすると考えが変わった「読売だからこんな小説にしたんだ」。
恐らく、彼が持っている危機感と僕が持っている危機感というものはレベルは違うであろうが、同じ種類のものだと思う。この小説を読んで、その思いはより強く、確信と呼べるレベルへと変わった。
この小説の事を書くのは非常に難しい。キーワードが多すぎるのが一つ、僕の中で消化しきれてないのが一つ。はっきり言って、何について書きたかったのか、明確な答えがない、見当たらない。ぼんやりとは頭にあるのだが、言葉に出来ない。それが言葉になった時、又、この小説については書きたいと思う。

1997.11.13
今でもこの小説の事を考える。「一体何を言いたいのか」考える。
最近、一つだけ気付いた事がある。フランクが歌舞伎町のパブで殺した人々に共通する事、それは「個人として生きようとしていない」事である。彼ら、彼女らは「ブランド」であったり、「女子高生と援助交際したいがために若い人の歌を歌う事」に価値を求める。
つまり、自分以外のものに自分自身の価値を求めている。今、日本に生きている人間のほとんどにあてはまるであろう、そういう人々を「殺害」するという事を「読売新聞」という巨大メディアで展開して行かざるを得ない程、村上龍の中での危機感は大きいものになっているのか。
しかし、悲しい事に彼の小説を読むのは「個人として生きている人」であろう。決して私もそうだとは言わないが、そうなろうと努力はしている。そういう私に彼の小説はパワーを与えてくれる。「自分がやっている事、やろうとしている事は決して間違っていない」と思わせてくれる。これからもそういう人に勇気と希望を与えてくれるような小説を書いて欲しい。


ラブ&ポップ

(1997.7.21 Written)

現代の女子高生の生態を独自の視点で小説化している。そして、結果として彼女たちを擁護するような内容になっているのは、今までなかったのでは?
主人公の女子高生は、自分が欲しいもの、それを今すぐに手に入れないと「価値」がなくなってしまいそうな気がして「援助交際」を決意する。
〜が欲しいから、今楽しく遊びたいから、援助交際をして「おやじ」から巻き上げたお金で遊ぶ、形は違っても現代日本の至るところに見える光景である。

何とか自分だけの価値観を探そうとしているのが、この日本という国の中で悲しい事に「彼女たち」だけであるような気がする。そのためにもがき、苦しみ、悩み、何とか自分の居場所を確保しようとしている。それをいろんな「もの」に置き換えながら。

彼女たちが本当に欲しいものは「お金」でも「〜のバッグ」でもない。他者との「出会い」であり、又その「可能性」である。まさしく今の「日本」という国の縮図であるといえる。
「買う方が悪いか、売る方が悪いか?」間違いなく買う方が悪い。何を考えて世の大人は彼女たちを「買う」のか? 彼女たちを買う事に一体「何の価値を見出しているのか?」。そこが全く分からない。
女子高生が持っている「閉塞感」とその先にわずかに見える「キラメキ」、それをつなぐものは少なくとも「援助交際」ではない。

1998.3.11 追記

なんで今さらここに追加するのか。直接書き換えればよかったのだが、考えの変化を示すために別にした。

「彼女たちが本当に欲しいものは〜「可能性」で」あり、そして価値観である。これはBoom.3でも書いている事である。今の大人が「大人になる事の価値」を子供たちに説く事が出来ない以上、子供たちは自分なりの価値観を自分で探していかなければならない。それが「ナイフをチャラチャラさせる事」であり、「ブランド品のバッグを持つ事」であり、「プリクラをたくさん持つ事」である。
そんな彼女ら、彼らに大人は偉そうな事を何も言えない。
子供たちに何の価値観も提示出来なかった大人は、彼らのナイフで殺されても仕方がないのではないか?


五分後の世界

(1997.7.15 Written)

現在よりも5分間、時間がずれた世界にもう一つの日本が現れた!
しかもその日本は人口26万人。しかし、今の日本人が失っているものを持っている。

今まで誰も書かなかった(書けなかった)「立体的構造」を持った世界観、又、その中に存在する「もう一つの日本」の形、全てが斬新であると思う。
村上龍氏が何かある毎に話している「日本は太平洋戦争で、あのタイミングで降伏すべきではなかった」という事、それを逆に「仮に降伏していなかったら・・・」という仮説を元に推し進めていった物語であると共に、村上龍氏が考える「理想の日本人像」がここにあるのかもしれない。

帯に書いてあるこの言葉が非常に印象的である。
「人類に生きる目的はない。だが、生き延びなくてはならない」


全ての男は消耗品である

(1997.6.1 Written)

このタイトル自体が既に「名言」といえるのではないか?
単なるエッセイである。が、タイトルにもあるように「全ての男が消耗品である」という前提に基づいたエッセイになっている。タイトルだけで頭に来ているような男性諸君は読んでも無駄。

内容は「消極的な消耗品」ではなく「積極的な消耗品」になろうよ、という感じになっている。
ただ、氏の事なので、そんなに直接的には書いていない。「僕はどうでもいいんだよ」などと逃げを打ちながら、結局は親切に書いてくれているというとんでもなく天の邪鬼な内容である。

まあ、興味がある人は読んで下さい。結果、あなたの考えがどう変わるか、その変化を自身で楽しんで下さい。


恋はいつも未知なもの〜You don't know what love is.

(1999.6.13 Rewrite)

村上龍の小説には必ずキーワードがある。それは人それぞれ違うだろうし、恐らく人それぞれ感じ方が違うであろういくつかのキーワードを意図して置いているのだろうと思う。

この小説の私にとってのキーワードは
「表現というのは追い詰められた人間のする事だ」


この小説は幻のジャズバーを探すという事で物語が展開していく。その幻のジャズバーとは、ふとした時に現れる。

村上龍はあとがきでジャズについて、こう述べている。

ジャズは、優しい。

1997.6.1 追記

氏が時々使う、「ある作品を元に小説を書いていく」というもの。私は結構好きです。他には坂本龍一氏の見た夢を元に書いた短編集「モニカ」が非常に近い手法を用いたもの。

ベースとなっているものは当時、氏がハマっていた「JAZZ」。ジャズのスタンダードナンバーの歌詞を独自で翻訳し、それを元に小説を作り上げている。もちろん、一つ一つを短編として楽しむ事もできるし、全体を一つの小説として読む事も出来る。
個人的には表題にもなっている「恋はとても未知なもの」が好きです。訳の部分が特に好きで、何度も読んでいます。

You don't know, what love is.

この言葉に該当するであろう人は一度、これを読んでみてはどうでしょうか?


愛と幻想のファシズム (上) (下)

(1999.6.6 written)

「愛と幻想のファシズム」は今だに私の中でナンバー1である。
私自身に及ぼした影響は計り知れず・・・という意味では本当にダントツである。

この小説には憎むべきシステムと、そのシステムを潰そうとして自らがシステムに成り下がっていく人々が描かれている。村上龍が当初描きたかったのは「システムを潰す」という事だろうと思う。が、書いているうちに「システムを潰すにはシステムを作らなければならない」ことに気付いたのではないか?

そして、この小説に書いてある日本の現状は、今の日本企業の現状に酷似している。特に急激に収益を上げた中小企業である。そして日本そのものの状況にも似ている。

もうすぐ雇用保険が破綻すると言われている。
それなのに日本政府は「盗聴法案」などを通して、総理は「サッチーとミッチーが激しくディベートしているが、私も管さんともっとディベートしないといけないなぁ」などと馬鹿面下げてテレビで喋る。こんな国に未来なんてあるわけがない。
この国を根本から覆すにはどうすればいいか? これを読んでください。

1997.5.30 追記

最近、某アニメのキャラの名前をこの小説から取ったという事で一部の話題になっている。

鈴原冬二という狩猟家を彼に魅せられた相田剣介という青年が独裁者に作り上げていくというストーリーだが、その中に様々な出会いもあり、愛憎劇あり、いろんなドラマがある。
が、この小説が非常に魅力的なのは、登場する人物の魅力もさる事ながら、いろんな設定が非常に凝っていて(特に経済とハイテク分野の設定は非常に興味をそそられる)、今の時代にかなり近い描写がなされているという点にある。

これが10数年前に書かれたものとは思えない。いろんな意味で時代を超越した作品。 私はこれがきっかけで村上龍にハマりました。


私と村上龍氏

(1997.11.27 written)

私が最初に読んだ彼の小説は「愛と幻想のファシズム」である。
私が18歳の時、書店で文庫化された「愛と幻想のファシズム」を見た。「愛と幻想のファシズム・・・なんという意味深なタイトルだろう。”ファシズム”が”愛”と”幻想”を伴うことがありえるのだろうか?」、しばらくその事ばかり考えていた。どうしても解答を導き出す事が出来なかった私は上下巻まとめて購入した。その時点で私が彼にハマっていく事はどうやら決まっていた事のようである。

それからもうすぐ10年になる。未だにパワーが衰えない氏の作品を読むと元気が出てくる。氏の作品の中にかすかな希望を見出しているのは私だけではないであろう。

彼の特徴はとにかく文章がうまい。信じられないくらいうまい。それは今まで発売してきた小説を読んでみれば分かるが、きちんと文章表現というものをずっと研究してきた結果であり、研究の過程にある小説というのももちろんある(「昭和歌謡大全集」「コックサッカーブルース」など)。が、それはそれで「研究の過程」とは思わせない程の出来のよさであり、パワーがある。

できれば彼の小説の紹介をホームページのメインに持ってくるというのが私の当初の希望であったが、とてもじゃないが今の私の文章力では彼の小説についてメインで何かコメントするというのは無茶である。だからしばらくはこの形、このペースで書いていこうと思っています。彼の小説について何等かのコメントをつける事は思いのほかパワーが必要である事に気付いて、少し後悔しています。

Copyright(C) 1997-2003 Yoshiyuki -Dave- Nakao. All rights reserved.